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大学生 そのとき書きたいことをそのまま

東京近辺を歩く 鋸山


前日の夜、ふと遠出をしようと思い立った。

 


インターネットで東京近郊の日帰りスポットを検索していると、「都会の喧騒を忘れる一人旅」「フォトジェニックな女子旅行」「大切な人と特別な時間を」と、何かしらを目的としたタイトルの記事が溢れていて、それを眺めているとだんだん嫌気が差してきて何処にも行きたくないような気がしてきた。私は都会の喧騒を忘れたい訳でも、フォトジェニックな景色を求めている訳でも、特別な時間を過ごしたい訳でもなく、ただ少しだけ遠くに行きたいだけなのだ。いや、こうして観光地を探している時点で純粋に遠くに行きたいだけとは言えないのだけど。

 

どこか島に行こうと思ったけれど時間とお金がかかりすぎるし、どうも前日に思い立って東京からふらっと行けるようなめぼしい島が見つからなかった。その他記事にまとめられているような場所はすぐ約束したがりな私が誰かと今度行こう、と言っていた所ばかりで、そこに1人で行ってしまうのは勿体ない気がした。海が見れないのであれば、山に行こう。高尾山は近過ぎるし…と思いながら1時間ほどスマートフォンを撫で続けていると、なんだか岩の先をすとんと切り落としたような、そのまま空中に放り出されたような、不思議な光景が目についた。鋸山というらしい。

自宅からは2時間かからないくらいで、JRだけを乗り継いで2000円ちょっとで行くことができる。良い。千葉県。良い。岩をくりぬいたような大仏もある。良い。ロープウェーで登ることができる、とても良い!

 

というわけで、7時間後には家を出て鋸山に向かうことを決めた私は慌ててシャワーを浴び眠りについた。


珍しく誰のためでもなく純粋な楽しみから目覚ましが鳴る前に目が覚めた。鋸山に向かう電車の中で窓の向こうの景色を眺めていた。東京はどこの街にも聳え立つようなマンションが立ち並んでいて、あの小さい窓ひとつひとつに誰かが住んでいて、そのひとつひとつの部屋に数千万の価値が付けられていると思うと気が遠くなりそうだった。一体この町はどれだけのお金が動いているんだ?

 

そして小さい頃は気付かなかったけれど、どんな田舎にもラブホテルがあって、安っぽいネオンが昼間は消えているのがさらに安っぽく映った。

それもまた町の景色の1つで、需要と供給、どんな田舎にも都会にも人が住んでいる限り性欲は実在するんだなあと思う。

 


さて目的地の駅で降り、鋸山ロープウェイへ向かう。小さい駅で、人もそんなに住んでいなくて、それでもロープウェイの料金はPASMOで払える事に笑ってしまった。GWというのもあってチケットを買ってから30分ほど日差しの下並んでいたけれど、本を読んだり水を飲んだりしながらやり過ごした。

後ろに並んでいた多分北欧系の夫婦が、本でも読んだりしていれば時間が潰せたわね、なんて英語で話していたのでにっこり笑いかけたらその倍くらい素敵な微笑みを貰ってしまった。どうして出会う外国人の方は皆とても素敵な微笑み方をするんだろう。

 

ロープウェイは数分で私達を山頂へ連れていってくれる。うん、私達という呼び方をしたくなる。数分間、同じ箱の中に居ただけでも不思議と親近感を持ってしまうからだろう。兎にも角にもそうして、私はゆっくりと展望台などを巡ることができた。

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私は山が好きだ。


函館に住んで居た頃はよく1人で函館山に登っていた。ここは私のための場所ではない、という感覚が好きだった。私のための場所でもないし、どの観光客のための場所でもない、ただ山はそこにあるだけで、訪れる私達は客にしかなり得ない。そんなところが好きだった。お邪魔します。

 


山というのは、
岩と土で出来ている。

 

そんな当たり前のことを忘れていた。

遠くから見れば木々しか見えないが、違う、山を形成しているのは岩と土だ。山の中に入らなければそれはわからない。

 

最初に、百尺観音を見た。観音像よりもまずそこに通ずる巨大な岩の間を裂いて通っている感覚に圧倒されてしまった。頭上、何十メートルになるのだろう?そんな高さまで一枚の岩が聳え立っていて、その隙間をひとが潜っていった。今にも岩が気分を変えたらその隙間はふいに閉じられてしまいそうだった。その隙間を越えると、また巨大な岩に仏像が刻まれていた。

まさに岩を刻んだ観音像だ。

その隣にある説明書を見て私はようやくこの日本寺がどんなものか知った。光明皇后の命によってなんたらという文章を読んだ、と思う。芸術の良いところは背景を知らずともその存在だけで見るものを圧倒できるところだ。

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地獄のぞきと言われる鋸山名物の展望台のようなところがあるらしいけど、あまりに長い列が出来ていたので並ばないことにした。代わりに、少し低い高台から並んでいる人を観察していた。都会で、例えば新宿でどれだけ沢山の人を見ても人混みだとしか思わないけれど、千葉県の鋸山で絶景のために並んでいる人たちは皆驚くほどひとりひとりが生き生きして映っていた。100人がいれば100人分違うファッションがあって、考えがあって、愛する人がいるんだろうなあと思った。なんとなくそう思えたことに満足して、ろくに景色も見ないまま私は山を降り始めた。残すは大仏である。

 

あまりに長い階段を降りた。「お母さんの膝が笑っちゃってる」「えー?どういうことー?」「わはは、お父さんの膝も笑っちゃってる」そう話す親子に、お姉さんの膝も笑っちゃってるよ、と声を掛けたくなる。

一段階段を降りるごとに、少しずつ膝から力が抜けて行く気がする。確かめるように一歩一歩踏みしめるように階段を降りた。週の半分私が通っているジムは本当に意味があるんだろうか?ベルトコンベアが流れるだけの機械で30分規則的に走る私は半年でもしたらこの山の階段を本当に平気で降りられるようになるんだろうか。


階段を降り切ると突然ひらけた広場に現れた大仏は、その唐突さも相まってなんだか現実味がなかった。

思わずすごい、と息を吐いていた。近付いて写真を撮って見ても、手を合わせてみてもまだどこかリアリティがなかった。さらに近付いてみると大仏の周りは堀のようになっていて直接触れることができなかった。その堀の向こうから2メートル程の距離で眺めていても、圧倒的に上から見下ろしてくる大仏は私と同じ世界線にいる気がしなかった。右横に回って大仏をまた眺めてみた。蓮の上に座禅を組み、ぽつぽつとパンチパーマのような髪型、(たしか螺髪というのだと丁度先週の大学の講義でやっていた)容姿をしているので如来像なのだと思った。予備知識も何もなしに来てしまったので説明書きを見ると薬師瑠璃光如来というらしいその大仏は、向かって右側からしばらく眺めて漸くその存在がしっくりと自分の中に受け入れられた。

あまりに大きすぎると、私の手に負えない、というか私の世界にうまく馴染むことができないのだと思う。この大仏が日本で一番大きいものだと知ったのも、恥ずかしながらこの後である。

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大仏を見てからなかなか長い間、山を下っていた。


山はいろんな匂いがする。仙台に住んでいた時、週末の度に訪れていた国立公園の匂いや、小学生の頃一度だけ参加したボーイスカウトのようなもので牛の世話をしたときの匂いがふと香る。人は何故匂いをなかなか忘れることができないのだろう。忘れた人や町や季節の匂いを、ふとした瞬間に思い出す。事もある。

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山を抜けて里に下りてから、また30分ほど歩いた。何も考えず標識のまま一番近いJRの駅に向かっていたけどその隣の駅からフェリーが出ていると知ってからフェリーに乗りたくて堪らなくなった。駅で20分ほどまた本を読んで時間を潰し、隣駅で降りて10分ほど歩き、そうそこは私がロープウェイに向かうために最初に降りた金浜だったのたが、最近の便を見送り1時間ほど土産屋を眺めてからフェリーに乗り込んだ。

 

フェリーに乗って揺れに身を任せていると、仙台から函館へ引っ越したときもこうやってフェリーに乗って津軽海峡を渡っていたことを思い出した。

13歳の私はその日のいつもより激しい揺れに言葉にならないほど不安になり、別れたばかりの仙台の友達にもうだめだ、船がひっくり返って私はここで死ぬ、とメールを送ろうとしては、海の上なので電波が届かず、ああ、最後の言葉を遺すこともなくこのまま友達も誰もいないまま、居場所がない私は消えてしまうのだろうか、と思っていた。

前の家を出て、次の家に入る間の期間というのは自分の帰る場所がわからなくてとても落ち着かない。空の箱1つでもいいから、帰る場所があるというのはそれだけで救われるのだと思う。もちろんフェリーは安全に函館港に到着して、新しい家に無事移り住んだ私はそれから7年近く経った今も元気に生きている。

 

人間は地に足をつけて生きて行く生き物なんだろうと思った。常に、自分がどこにいるかはっきりと自覚していたいんだ。帰る場所が欲しいんだ。魚のように、鳥のように、水の中や空といった形ない場所を彷徨って生きて行くことはできない。それでも昔に比べて海の上にいても落ち着いていられるのは、少しずつ私が場所に頼らず自分というものを確立していったからなのかもしれない。

 

船の上から丁度沈む夕陽を見ていた。この船から眺める日の入りは少しだけ有名みたいで、観光客は皆船の上から夕陽にカメラを向けていた。

太陽は本当にすごい。太陽は、本当に、すごい。

バカみたいな台詞だけれど、私の視界には直径3cm程度の丸かのように映るそれが山の向こうに姿を消すだけで、世界から光が失われてしまう。当たり前に、すごいと思う。なんだか日々の都会の生活では気付かなかった自然とか、宇宙とかそういったもののすごさを改めて感じられる。太陽、圧倒的にすごい。人間がどんなに文明を発達させても太陽には絶対に敵わない。

皆気付いてる?太陽、ヤバいぞ。

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数十分で辿り着いた久里浜というのは横須賀市にあるのだと降りてから気付いた。適当に東京のどこかだろうと思っていたらどうやら神奈川らしい。京浜久里浜駅まで歩く。家を出てからロープウェイで辿り着いた鋸山山頂で買った団子の他に何も食べていない事に気がついて、突然食欲が湧いて来た。駅まで20分ほど音楽を聴きながら歩いた。

そういえば私は東京で過ごすうち常に移動時間は音楽を聴いていたのに、山を歩いているときは不思議と何も聴く気にならなかったなと思い出した。横須賀。どこかわくわくするその響きも、フェリー降り場から駅までの夜にはありきたりな郊外でしかなかった。

 

駅の近くで、全国どこにでもあるチェーン店ではないお店に入りたいと思って落ち着いたお店に入った。暫くビールやちょっとした料理をつまみながらぼんやり考え事をしていたけど、暫くしてマスターが話しかけてくれた。昔から初対面の人間に適当な嘘をついてしまう癖が治らなくて、気付けば私は大学2年生で来月からオーストラリアに留学することになってしまっていた。横須賀軍兵士の客とのやり取りやら何やらを話して盛り上がって、近くの席に座っていた常連のお客さんも会話に加わって、少しだけ「知らない地元の人」と話せて嬉しかった。きっと、「知らない地元の人」として大切にしたいんだ。特別にしたいんだ。だから私はきっと、2度と彼等と会うことはなくて、架空の自分を作り上げてしまう。

 

終電で家へ帰った。行きは長く感じた道のりも帰りは今日1日を思い出していると一瞬のことのように思えた。


写真を見返しながら気付けば今日出会った人達を思い出していた。ロープウェイを後ろで待っていた北欧系の夫婦の素敵な笑顔だったり、猫と戯れる地元の子供の笑い声だったり、夕陽を撮るカメラマンの横顔、横須賀のお店のマスターの神経質そうな指。


少しだけ嘘をついてしまったことを申し訳なく思った。私のことを誰も知らない土地に1人で行っても、やっぱり私は私なのだし、なんだかねえ、誰かにはなれないのだし私は人が好きみたいだし。

 

また遠くに出かけよう。今度は、私のまま出かけよう。