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大学生 そのとき書きたいことをそのまま

旅館の近くには金木犀がよく咲いていた

そろそろ昔のように文章のひとつくらい書いてみたらどうなんだと思いながら、ここのところ何も言葉にしたいことがなくて困った。思考を言語化できないどころか、最近の私はそもそも特になんにも考えていないのだった。


『暗夜行路』の主人公がよく住む場所を変えては文章を書くことが捗ったり捗らなかったりしているのを見て、さては普段と違う土地に行ってみようかしらと思い来週に箱根の旅館を予約した。ソウルでお金を使い過ぎたので、1泊2食付で2万に収まる程度の適当な宿だ。折角わざわざ1人で旅館に泊まるのなら特別なところが良いんじゃないの?とも思ったけど、そもそも最初から特別な旅館なんてものはない。私が実のところ今旅館に求めていることは女1人で来週の連休に1泊2日できて、朝夕のまともな味のご飯がついていて、タトゥーでも温泉に入浴可であること、それだけ。それを満たすうちで一番安いところに泊まったとて何も恥じることはない。私自身だってこの間ふと空いた日に誘ってくれた友人からしたら、その日の予定が空いていて、都内に住んでいて、年が近くて、酒が飲めて、自分と同じようにK-popアイドルの知識があるだけ。それでも彼女が誘ってくれたその日に一緒に過ごしたことによって私と彼女の間に新たな時間が生まれ、彼女にとっての私はこれまでよりも少しだけ特別になる(かもしれない)。


とにかく、まずは過ごすことから始まるのだ。


10時半発のロマンスカーに乗って新宿から箱根湯本へ行く(1週間後の行き先に箱根を選んだのはロマンスカーのお陰でとにかく交通が楽であるからだ)。特に何を考えることもなく箱根湯本に着き、駅の近くにある有名な蕎麦屋に入った(45分ほど並んだ)。箱根湯本の駅を降りた時には肌寒く少し雨が降っていたが、私の旅はたいてい雨であるためこの程度では何も動じぬ。リュックから出したウィンドブレーカーのフードを深く被り足早に歩いて蕎麦屋に向かった。蕎麦はそれなりに美味しかったが、天麩羅の油が美味しくなくて食後胃もたれを感じた。天つゆの味も薄すぎるように感じた。コンビニに入ってR-1と水を買って流し込んだらいくらかましになった。

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何度か箱根に来たことがあるが美術館ばかり巡って大桶谷に行ったことがなかったので、登山鉄道とケーブルカー、ロープウェイを乗り継いで大涌谷に向かった。15時近くに大涌谷に着いた時には先ほどよりかなりしっかりと雨が降り始めていたけど、立ちこめる硫黄の匂いに雨の匂いが混ざって心地よかった。旅行の日が雨でも誰にも申し訳なくならなくて良いのは一人旅のよいところだなと久方振りに思う。私個人は雨で悴む指の感覚も好きだが、人と一緒にいるとなると私も晴れているのがもちろん良い。雨の日に人と屋外にいるのは少し苦手だ。私のせいではないにせよ、なんだか申し訳なく感じるからだ。そういうところがきっと良くなかったんだ、と思う。

 

山が突如削られているような荒々しい斜面(3000年前の箱根火山の水蒸気爆発によって山が崩壊して出来た地形らしい)、岩の隙間から絶えず立ち上る湯気と、咽せ返るような硫黄の匂い。母と2人で仙台に住んでいた頃に何度か行った蔵王御釜を思い出した。

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山や海に行き、その一部が荒々しく削られている様子を観ると、地球は水と岩で出来ているのだと実感できて神妙な気持ちになれるのが好きだ。鋸山に1人で行った日にも似たようなことを書いていた気がする。一見すると緑に覆われていて穏やかな山であるが、その中身は(火山である場合)どこまでも荒々しく只岩であると…こう書くとめちゃくちゃかっこいいな。山、かっこいい。

かの有名な黒卵を買ってその場でひとつ食べた。皮は黒いが、剥いてみると真っ白なゆで卵で食べてみてもいまいち普通の茹で卵と味の違いがわからなかった。4個入りしか売っていなかったが夕食の時間は18時と決まっていたので、あまりお腹を満たしすぎない様ひとつだけ食べた後は袋に仕舞った。またロープウェイとバスを乗り継いで旅館に移動する。

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旅館最寄りのバス停に降りてから10分ほど地獄のような坂道を登って旅館に着いた。旅館の近くには金木犀がよく咲いていて、辛い坂道を越えてきたところを香りで迎えられているようだった。サイトを見て期待していた通りの地味な旅館だ。道を歩いてこの旅館に来た人は辿り着いた時に皆息が上がっているのだろうと思いながら、クールに息を整えてチェックインの手続きを終える。部屋に入って浴衣に着替えてからすぐに温泉に入った。地味な温泉だが、スタッフの説明曰く何かの十五選には入っているらしい。何の十五選かは忘れた。こちとら二十歳でタトゥーを入れてから約5年、まともな温泉に一度も入っていないのである。どこの湯がどこよりどんだけ良いかなんて判る筈もない。

 

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運良く私が入った時には女湯に誰もいなかった。地味な旅館らしく大容量のボトルに入ったボディーソープとリンスインシャンプーの2つだけが置かれている。コンディショナーとトリートメントが現れてからリンスという単語を滅多に聞かなくなったのでなんだか懐かしい気持ちになった。私は昨日2万4千円の髪質改善を受けてきて、今日は1万8千円1泊2食付きの宿でリンスインシャンプー一本で髪のケアを終えている(流さないトリートメントも持ってくるのを忘れた)…。


5年ぶりの温泉はたいへん気持ちよかった。


温泉を上がってから夕食会場に向かう。地味な旅館なので、夕食会場に来ている私の他の宿泊客は4人の家族連れと6人の中国人団体客だけだった。勿論1人で来ているのは私だけだ。

食事には正直そこまで期待していなかったのだけど、値段の割に地味ながら美味しい食事だった。例えば味噌汁の出汁やちいさな副菜ひとつひとつが丁寧によく考えて作られている味とは感じられないけど、刺身は悪くなかった。天麩羅が出てきた際に食べ切れるか不安に思ったが、昼の有名蕎麦屋の天麩羅より何倍も美味しくすべて平らげてしまった。お米の硬さも丁度良かった。一杯目だけ梅酒を頼み、その後箱根街道という名前の地酒を300mlの瓶一本で頼んだ。それは正直言って全く私の好みの味ではなかったが、まあ仕方ない。

 

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給仕は主にベテランらしい50近い男性と私より若いくらいのおそらく南アジア系の青年が行っていた(日本語が母語のようだったので多分日本で生まれ育ったのだろうと思う)。客が少なかったのもあり青年はずっとホールに出てよく気が付いてくれていたのだけど、まだ仕事に慣れていないらしく卓に入る度に彼の緊張が伝わってきた。一度声をかけてから去るまでに毎回3回は「失礼します」と言っていた。私も飲食店で働いていたことがあるからよくわかる。最初は適切なタイミングが分からないので兎に角緊張を抜けないまま卓に入って良いタイミングを今か今かと待ってしまうし、いざ卓に入るとお客様の前で無言で作業するのが怖くて何かしら失礼しますやすみませんばかり繰り返し口にしてしまうのだ。彼は185cm近い大きな身体を丸めながら、とても丁寧に食事を運び、水を注いでくれた。彼がタイミングよく私の皿を下げてキッチンに戻る度にベテランらしい男性の「よし!」という声が奥から聞こえてきた。まだ研修中のような立場なのだろう。


私はその青年を見ていると気分が良く、彼の不器用さと一生懸命さをとても美しいと思った。同時に、彼を前にすると自分がとても面倒で、汚れており、老いた存在に思えた。でももしかしたら、まだ慣れない配属先の上司の目には私も彼のように映っているのかもしれない。不器用だが一生懸命で美しい…そんな筈はないか。そんな筈はないな。私を一生懸命と呼んでしまうのは、一生懸命という言葉に対して不誠実だと感じる。不器用でさえ、私を不器用と呼んでしまうのは、不器用に対して不誠実に感じる。私はよく自分のことを(とても激しく!)不器用だと感じるが、実際のところ私は不器用という言葉には相応しくないように思う。

飲みきれなかった箱根街道を青年が持たせてくれたお盆に乗せて部屋に持って帰り、昼間買った黒卵を食べた。大涌谷で食べた時にはあたりいちめん硫黄の香りで気付かなかったが、静かな旅館で食べた黒卵は硫黄の香りがよくしてなるほど、と思った。

 

部屋で飲んでもやはり美味くない箱根街道をひと口飲んで、さていよいよ困った。私は1人いろいろな面倒ことを思う存分考えたくてわざわざ箱根くんだりまで来て地味な旅館に泊まっているというのに、なんなら箱根から帰ってきた私はなにかしら新しい価値観を土産に今後の進む道や自分自身のことをよく整理つけているだろうと期待すらしていたのに、今のところ私は東京にいる時と変わらずなんにも考えていないのだった。

特に考えることもないので志賀直哉『暗夜行路』を主人公が結婚したところあたりまで少し読み進め、もう一度温泉に入りに行った。はじめは誰もいなかったが、数分湯に浸かっていると同い年くらいの女性が1人入ってきた。先ほど夕食の席にはいなかった女性だ。彼女は身体を洗った後に私が浸かる温泉に入ろうとしたが、おそるおそるお湯に手を付けてから片足を触れ、慌てて引っ込め、というのを5分ほど繰り返していた。

「熱いですか」と私は笑顔で話しかける。彼女は困ったように笑いながら私を見て「熱い…」と呟いた。私はこの温泉はなかなか浸かりやすい温度だなと思っていたところだったので、これだけ熱がり湯に入るのに躊躇っている様子からして外国から来た方かしらとも思ったのだけど、「熱い」の発音と彼女の顔立ちだけでは明確に外国の方と判断できなかった。彼女がまたさらに5分ほどかけて身体を少しずつ少しずつ湯に縮めていく間じゅう、英語で話しかけようかしら、でももし熱さにとても弱い日本人だったら突然英語で話しかけたら戸惑うだろう、など考えて結局5分後ようやっと彼女が全身を湯に浸からせることに成功した時には笑顔で小さく拍手だけを送った。彼女も笑っていた。その笑顔が可愛かったのでもう少し一緒にいたかったのだけど、もう15分ほど湯に浸かっている私は頭がぼんやりしてきているし先程300mlの日本酒を飲んだところなので、大人しく先に上がることにした。

部屋に戻ると湯上がりの心地よさでもうこのまま眠ってしまいたい気がしたので歯を磨いて眠った。22時頃だったと思う。

 

雨の音で7時頃に目が覚めた。旅館という建物に雨はよく似合う。暫くインターネットを眺めてから服に着替えて朝食に向かった。浴衣のまま寝たので洋服に着替えたのだけど、私は浴衣に比べると随分洋服が似合わないなと思った。結局のところ洋服は洋服と書くだけあって、西洋の人の体格に似合うよう作られた服なのだと思う。今年の夏は部屋着に浴衣を買ってみようかと考えた。在宅勤務をしている時にふとカメラをつける会議で私が浴衣を着ていたら、上司は面白がってくれそうである。

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朝食にはかれいの煮付けが出されたが、昨夜の夕飯ほどは美味しくなかった。美しい青年もいなかった。住み込みで働いているわけではないのだろう。蟹の味噌汁は良かった。朝食を済ましてから、最後にもう一度温泉に入った。昨日は狭い方の風呂が女風呂であったが、今朝は広い方の風呂が女風呂になっていた。昨日よりも4倍は広い風呂で、前面がガラス張りで竹林と雨の様子がよく見えて美しかった。昨日の大涌谷からずっと硫黄の香りを嗅いでいる気がする。

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部屋に戻ってから荷物を片付け、旅館を出た。雨の中10分ほど歩いたバス停から小田急の高速バスに乗る。この1本で新宿に帰れるのだ。最初は一度箱根湯本に戻って何かしらもう少し観光をしてからロマンスカーで帰ろうと思っていたが、湯上がりの暖まった身体のまま東京に帰りたかったので9時半発のバスですぐ帰ってしまうことにした。

 

そうして小田急バスの中でこの文章を書いている。いよいよ本当に何も考えないまま東京に帰ってきてしまった。もう池尻大橋である。考えることがないのは今は何も考える必要がないからなのだと思うことにした。結局のところ今の私に必要なことは、淡々と日々を積み重ねることくらいなのかもしれない。朝風呂のお陰か旅の疲れを感じないくらい身体が軽いので、新宿でバスを降りたら家に帰る前に無印良品とスーパーに寄ろうと思った。淡々とした私の日々のために必要なものを買おう。ああ、でも本当に5年ぶりの温泉は気持ちよかった。地味な旅館から眺める雨が良かった。ただ5年ぶりに温泉に入りに行っただけだったとしてもそれはそれで悪くない旅行だ。またよく勉強して、野菜を食べて、運動して、家を綺麗に保ちながら、淡々と地味に日々を積み重ねよう。